妻の陽子は、毎週水曜日の朝になると、少しだけ丁寧に口紅を引いて家を出る。定年を迎え、四十年ぶりに家にいる時間が増えたはずなのに、夫の俺にはその水曜だけが、やけに遠く感じられた。 「どこへ行くんだ」と聞ければよかった。だが、疑っているように思われるのが怖くて、結局、何も聞けないまま時だけが過ぎていく。そんなある日、陽子の部屋で洗濯物を取ろうとして、机の上にあった水彩画を見つけた。最後の絵は、娘が生まれる前に描かれた窓辺の花。白紙のまま止まっていた筆が、いつの間にかまた動き出していたのだ。 翌週、気になって後をつけると、陽子が入ったのは駅前の市民文化センターだった。中では水彩教室が開かれ、彼女は真剣な表情で筆を走らせていた。