七十歳になった今も、佐伯健は炎天下の交差点に立ち、交通整理の旗を振っている。体力に自信があるからでも、生活に困っているからでもない。ただ「働けるうちは働くことが一番だ」と、長年自分に言い聞かせてきたからだった。しかし、同じ工場で四十年以上働き、同じ六十五歳で定年を迎えた同期の三浦進は、五年前に仕事を辞め、穏やかな日々を送っていた。年金や退職金に大きな差があったわけではない。それなのに、なぜ自分だけが今も厳しい現場に立ち続けているのか。佐伯はその理由を考え始める。ある日、釣竿を持って歩く三浦と再会する。三浦は妻と畑を耕し、季節を楽しみながら暮らしていた。「辞める前に、どんな生活をしたいのかを先に決めたんだ」と語る彼の言葉は、佐伯の心に深く残った。佐伯はそこで初めて気づく。自分は必要なお金のことばかり考え、仕事を辞めた後に何をしたいのか、一度も考えていなかったのだ。妻の富子との会話をきっかけに、佐伯は若い頃に約束した「二人で鈍行列車の旅をする」という夢を思い出す。四十年間後回しにしていた願いだった。行き先が決まると、不思議なほど不安は軽くなった。大金が必要なのではない。大切なのは、自分がどんな人生を送りたいのかを知ることだった。